社民党

博治から 博治へ ―その6

2017年02月13日

 2月13日午前10時頃、指定された那覇拘置所接見室の扉を開けた。6日ぶりの博治の元気な顔があり、ほっと安堵した。毎度のことだが、博治の元気な顔を見るまでの接見待ち時間は落ち着かない。

 私のブログでの「博治から 博治へ」も回を重ねるごとに、博治の拘束状態を案じ、不当な長期勾留から一日も早い釈放を求める多くの人が読んでくださっているようだ。
 2月8日付のブログには、1,096人が「いいね!」の反応を寄せてくれている。(2月13日18時45分現在)
 読者の皆さん、ありがとう。博治の「今」を多くの人に伝えてください。

 ウチナーは、昨日(2月12日)が旧暦1月16日のグソー(後生=あの世)の正月、ジュールクニチー(16日祭)であった。接見後に那覇地裁前で会った博治の妻や兄嫁からジュールクニチーにご先祖様にも「早期釈放」を祈願した、と聞いた。

 今日の接見時、博治からは、独居房で兄夫婦、同級生、有志の仲間らによる拘置所の外からの「愛の一声」「激励の一声」が聞こえたこと、兄の健康を気遣い、「寛徳先生から兄に『無理しないように』と伝えてください」と言付かった。

 独居房には暖房設備がない。先週末は寒かったようで「重ね着して寒さをしのいだ」という。博治からホッカイロの差し入れを頼まれたので、接見後すぐに手配した。(現時点で、差し入れが認められたか不明だ)

 先週の接見時に告白された虫歯の疼きは、たいぶ治まったとのことで一安心した。博治から、妻・多喜子宛に「お菓子や甘い飲み物は一切差し入れないでくれ」と伝言された。

 今日の接見時に、私から雑誌「世界」3月号に博治関連の2本の評論記事が掲載されていることを伝えた。
 
 一つは、森川恭剛氏(琉球大学法文学部教授)の「山城博治議長の解放を―不正は刑事司法の側にある―」という小論文だ。博治の「釈放」ではなく「解放」を求めている。
 博治と二人で「すごい論文だ」とその論理と感性を讃えた。森川教授の専攻は存じ上げないが、私も同大法文学部卒業生である。近々お会いできればと思う。

 もう一つは、新城郁夫氏(琉球大学法文学部教授)と鹿野政直(早稲田大学名誉教授)の対談「沖縄を生きるということ(前編)―高江それぞれに『現場』をつくりだす人びと―」である。
 対談の中で、鹿野教授は「前は山城さんの存在が人々をつないでいた。今は、山城さんの不在が日々とをつないでいる」と述べている。その発言を受けて、新城教授は「不在であるがゆえに、むしろ人びとはつながっていますね」と応じている。

 私は、予め当該引用部分をメモして出かけたので、接見室で博治の顔を見つめ、読み上げた。全神経を集中して聞いていた博治は、一瞬で涙を滂沱(ほうだ)した。おかげで、私までもらい泣き寸前に・・・。
 博治には、共通の友人である照屋勝則(ゆうな印刷社長)と妻・多喜子に「世界」3月号を早く買い求めて差し入れるように言ってある、と伝えたところ、配慮への感謝が述べられた。

博治から 博治へ ―その6

 接見を終えて、上京すべく空港へ向かった。いつものところ(那覇地裁正門付近)で、今日も6人の男女が博治の早期釈放を求めて「サイレント・アピール」をしている。それぞれが、お手製のプラカードを掲げている。(写真)
 車を停めて近寄ると、博治の妻と兄夫婦、そして名を知らぬ市民らであった。60代の浦添市の男性は「毎日博治のことが心配で、仕事を終えて駆け付けた。辺野古新基地建設の工事再開も許せない。博治には、一日も早く現場復帰して元気な姿を見せてほしい」と切実に訴えていた。

 新城教授と鹿野教授の対談にもあるように、博治の「不在」は形を変えて、創造的な連帯を間違いなく生み出している。それを実感する今日の出会いであった。

 今朝の地元紙は、北谷町美浜で昨日、マネキンを装った黒服姿の男女が博治の長期勾留に抗議し、早期釈放を求める「マネキンフラッシュモブ」をおこなった、と報じている。
 
 博治の「存在」と「不在」は、結果としてウチナーンチュの自主的で創造的な運動を多様化させ、拡がりと奥行きを与えている。
 その運動とそれらを生み出す市民の「声なき声」に、博治もまた励まされ、不屈に闘っている。

2月13日

Posted by terukan at 18:47
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